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2009年6月

『栞と紙魚子』①~③ 諸星大二郎 

 テレビドラマにもなった有名シリーズだが、マンガ全般にご無沙汰だったので、これが10年以上も前からある諸星大二郎のシリーズものだとは割合最近まで知らなかった。数ヶ月前に読んだ自選短編集の中の「生首事件」で、シュールでコミカルな要素がいい感じだったので、まとめて購入。やはり面白かった。どの作品もいいけど、ちょっと多いので各巻から数作ずつ感想(ちなみにドラマの方は全くみたことがない)。
①「生首事件」 悪気はないのにトラブルを引き込んでしまう栞と古本マニアで(変な)物知りの紙魚子というキャラクターが第一作目にしてすでに確立。生首を飼う二人のやり取りがおかしい。
「桜の花の満開の下」 桜の木の下には・・・という言葉をそのままホラーにしたダジャレベースの実にらしい作品。
「ためらい坂」 いったん登り始めたら絶対に引き返してはならないという<ためらい坂>。オチがいいです。
「それぞれの悪夢」 文芸部のホラーマニア洞野が作る同人誌の奇妙なホラー小説が実体化する話。栞の飼い猫のボリスが人間年齢のおっさん化するというベタと言えばベタな設定が、作者の独特の絵柄とあいまって不思議なユーモアを醸し出している。
「クトルーちゃん」 「ボリスの獲物」にちらっと登場した怪物少女クトルーちゃんが本格的に活躍。このクトルーちゃん、お父さんの段一知、お母さん(名前はなんだっけ?)、ペットのヨグの一家はとにかく最高。ラヴクラフトは不勉強ながらほとんど読んでいないけど、問題なく楽しめる。テケリ・リ・リ!!
「おじいちゃんと遊ぼう」 これもクトルーちゃんもの。作家である段一知の原稿を取りに行った新しい担当の編集者が大変な目にあうのが泣かせる(?)話。
②「頸山のお化け鳥居」 クラスメートがお化けに出会ったのは、誰かが頸山神社に呪いをかけたせいらしい。この人の絵は本当に個性的だなあ。
「ラビリンス」 アミューズメント・パークの巨大迷路に行ってから、栞の家がおかしなことに。おおボルヘスですかー。
「魔書アッカバッカ」 紙魚子は古本屋の娘だが、その宇論堂に訪れる客も一癖も二癖もある連中ばかり。禁断の本をめぐる話は本について並々ならぬ情熱をお持ちの皆様方の爆笑を誘うことは間違いなし。
「殺戮詩集」 恐ろしい詩人菱田きとらの話。このキャラクターも強烈。いろんな登場人物を思いつくなあ。
「長い廊下」「頸山城妖姫録」 続きものの本格派歴史ホラー。こうした本格的なホラーものとコミカルなものが両方収められているのがこのシリーズの人気の秘密だろう。
③「ペットの散歩」「ゼノ奥さん」 強烈な個性を持つ絵柄だから、見えないペットという設定がより生きてくるんだよなあ。さすがである。二人が迷い込む街の風景が、以前の作品を思わせて印象的。
「本の魚」 本を釣る話である。そのまんまだもんなあ。この巻では全体に紙魚子の本へのこだわりがより目立っている気がするが、何ともいい味です。
「夜の魚」 夜の魚が泳ぎまわって、胃の頭町に行方不明者が続出するというお話。ラストを飾るにふさわしく、キャラクター総出演の大ドタバタ劇(他にもドタバタ作品は結構あるけどね)。こうしたにぎやかなドタバタ劇は『うる星やつら』でよくあったパターンの気もするが、テイストが違うところが面白い。
 他にもここで書かなかったインパクトのある登場人物が複数いて、いろいろな作品と絡んでいくのでそれも楽しい。シリーズ後半では多少コミカルな要素が強くなる感じが若干あるが、全体にシュールさと気色の悪さが一貫している上に作品の質も保たれているので、コミカルな面での代表的なシリーズなのも当然だ。

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時の移ろい

 ファラ・フォーセットとマイケル・ジャクソンが相次いで亡くなるとは。どちらも70年代末から80年代前半のグラマラスなあるいはゴージャスなアメリカの顔といった存在だった。どちらに対しても熱心なファンではなかったが世代的にいろいろ浮かんでくる。ファラ・フォーセットは62歳か。高齢とはいえないものの時の流れを感じざるを得ない。※追記 忘れちゃいかんCKBの‘タオル’にもファラが登場してた!
 マイケル・ジャクソンは洋楽を聴き始めた中学生の時、アルバム“オフ・ザ・ウォール”からのシングル‘ロック・ウィズ・ユー’が大ヒットをしていて、とにかくカッコいい曲だなあと思った記憶がある。その後“スリラー”があまりにも売れて社会現象化してしまったために、生真面目な音楽ファンほど敬遠する傾向にあったが、いい曲が多くてなかなか良質なアルバムだと思う(これだけ有名なアルバムなので、あらためてこんなことを書くとアホっぽいが)。もちろんジョン・ランディスを使うセンスも時代とマッチしていた(まだホラーやSFはメジャーなジャンルではなかったので、狙い自体が新しかったのだ)。ただ“バッド”以降になるとビッグ・ビジネスを担った重苦しさみたいなものが(もともとあったのだろうが)目立つような感じもあって、個人的にはどうも馴染めなかった。いずれにせよ、こんな感想をファンともいえないような当ブログ主が書けるのもそれだけラジオやTVから曲が耳に入ってきたからである。特にミュージックビデオ番組でマイケルがかからない日はなかった。マイケルの曲は歌謡曲のようにJポップのように流れていたのである。一方で、あまりにウェルメイドで洗練されビジネスとダイレクトに結びつきすぎた音楽、という点で評価が分かれる人でもあった。何はともあれ自分としてはソウル/R&Bを聴くきっかけを与えてくれた人物として忘れえぬ大きな存在である。
 マイケルに関してひとつ思い出したことがある。1990年代前半のこと、すっかりオトナになってしまったのにイケナイ友人にクラブ遊びを教わったさあのうずは、勢い余って仕事休みを利用して一人でNYにクラブめぐりの旅行に出かけたことがある(ひとりクラビングツアーである。元気だったのう)。その時名前は忘れたが某有名クラブ(アフターアワーズにリサリサ&カルトジャムが登場してもうすぐ明け方なのにHow are you doing tonight!といっていたのが記憶に残っている)、で夜明けごろ‘マン・イン・ザ・ミラー’がかかった。これは非常に意外で、上記のようにゲストが登場することはあっても、基本的にはハウスミュージックを中心としたヴォーカルの入っていない音楽が中心にかかるところで、マイケルのようなビッグ・ネームの一般のポピュラー音楽が流れるとは予想していなかったからである。しかも、これは例の虐待疑惑が報道されていたころだったので、ますます印象的だった。その後振り返って、おそらくこのときのDJはクラブ文化の先輩であるディスコ文化をメジャーなものにしたマイケルに変わらぬ敬意を表明したのではないか、と思った。マイケルへの幅広い支持を知った貴重な体験だった。

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‘ベスト・イン・スリー・ディグリーズ ’

 昨年ノーマン・ジェイのコンピレーションを買ってから、突然フィリー・ソウルに目覚めてしまい、その後‘ラヴ・トレイン:フィリー・ソウルの全て ’を購入して、中古のベスト盤を中心だがさらに様々なグループのCDを買い続けた。その中でビリー・ポールとスタイリスティックスが特に良かったのだが、今回紹介するのは一種独特なポジションにいるグループである。名前はものまね王座決定戦でビジーフォーの得意ネタとして記憶される(古!)ような、歌謡系洋楽というか本国より日本で人気のある、どちらかといえば洋楽のファンには軽んじられやすいタイプである。実際はNo.1ヒットの‘ソウル・トレインのテーマ’もあるし、相当有名なはずなのだが、ソウルフルというよりは清潔感の漂う明るい雰囲気とストリングスを多用した親しみやすい音づくりが日本人の好みにばっちりとはまって、あたかも日本のミュージシャンのような幅広い人気を得たようだ。とにかくいろいろと面白い曲があったので、このベスト・アルバムから一部紹介(数字はCDのトラックNo.。情報はすべてCDの解説から)。
2 Dirty Ol'Man(荒野のならず者) 邦題がイイです。オリジナル・メンバーは高校時代からという彼女らはなかなか売れず、ようやく小ヒットを飛ばしたあとフィリー・ソウルの立役者ギャンブル&ハフのフィラデルフィア・インターナショナルに移って、この曲がオランダ1位になりヨーロッパ進出の足掛かりとなったらしい。ストリングスとコーラスが妙に歌謡曲然としているのは、きっとこうしたサウンドをベースにしてつくられた歌謡曲をその後に聴いているためだろうが実に不思議な感じにとらわれる。
4.When Will I See You Again(天使のささやき) 74年6月第3回東京音楽祭金賞受賞作。ほどよいお色気(またまた古!)の漂う感じの曲で、ディープなソウル・ファンが難癖をつけそうだが、このぬるさがいいんですよ。
7.Midnight Train 松本隆作詞、細野晴臣作曲、矢野誠編曲、ティン・パン・アレイの演奏ということで、まんま日本のミュージシャンの曲。まあスリー・ディグリーズは妙に歌謡曲要素が強いとは思うが、元々フィリー・ソウルはストリングスを多用したメロウな味が特徴なので、結構歌謡曲っぽいものも目立つ。というわけで、解説を読んでから、日本っぽい感じがある気もしてきたが、実はあまりほかの曲と差は感じていなかった。ティン・パン・アレイ、やるな。
9.Nigai Namida(苦い涙) このCDのハイライトがやってまいりました!こちらは安井かずみ作詞、筒美京平作曲、深町純編曲。ポリス、クイーン、ベンフォールズファイヴと日本語の歌詞を歌ったミュージシャンたちが思い浮かぶが、これには敵わないだろう。典型的な恨み節の日本語歌詞を歌わせてしまう倒錯ぶりに卒倒しそうだ。オンナガシメス アイノヤリトリ ミワケツククセニ ジンセイカケテ ガケニタタセテ テヲハナスツモリ とくるんだからたまりません。矢島美容室はこの辺りがヒントだろうなあ。
12.La Chanson Populaire(恋はシャンソン) シャンソン歌手クロード・フランソワのカヴァーらしい。大仰なストリングスで素晴しくインチキ臭さい似非シャンソン。日本ではこの前の「苦い涙」のあとのシングルがこの曲だったらしい。ソウル・グループとは思えぬ展開ぶりが素晴らしすぎる。
13.Do It 今度はへヴィ・ファンクに挑戦、といってもいいような曲だが日本レコーディングためか偶然かあまりにルパン。
 むしろ最初から本国で売れなかったためにユニークな道を歩むことになったのかもしれない。様々な曲をやらされることになったのも爆発的な個性がないせいということかもしれない。歌い方も強烈に迫ってくる感じではなく、割合あっさりしていて日本人にはかえって聴きやすかったのも良かったのだろう。グループとしては息が長く、なんと7月に来日公演もある。ちょっと驚いたのは、1985年にストック/エイトキン/ウォーターマン(80年代ディスコサウンドを一手に担っていたプロデューサー・チーム。嗚呼PWL!
)とのシングルもあること。Youtubeにもあった。

 何というかどうしてもアクも個性も弱い感じなのだが、逆に力まず何でもこなせちゃうようなところもあって、この曲も普通にサウンドと馴染んでいるのが不思議だ。控え目な職人技の凄さというか、そんなところもやっぱり日本受けする感じだったり。何はともあれなかなか楽しいグループである。

※追記 ビジーフォーの物まねの方も発見。 

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‘漂流 本から本へ’

 朝日新聞で連載中の筒井康隆のエッセイ‘漂流 本から本へ’が大変面白い。毎回、少年時代に読んださまざまなジャンルの本(日本作家、海外作家を問わず、もちろんマンガも入る)がその頃の思い出とともに語られるというもので、一種の自伝にもなっている。もともと評論やエッセイでも定評のある作家である。しかも、いかにしてあの筒井康隆の基盤がつくられたのかが明かされるのだから面白くならないわけがない。なかでも笑ってしまったのが、メリメの「マテオ・ファルコーネ」の回である(作品のオチを含んでいますが、アサヒコムでも読める)。
 これ以降、悪さの絶えない子供がいる家では低い声で「マテオ・ファルコーネ」と言うのが流行っているらしい。<うそ

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『トーノ・バンゲイ』 H・G・ウェルズ

 少年の頃のフィッツジェラルドも読んでいたという本書(『ベンジャミン・バトン』の解説より)。SFの父ウェルズの代表作で偽薬をめぐる成功と破滅の物語らしいと聞いて、その奇妙なタイトルと現代的な題材に俄然興味がわいていた。すると、とある古本市であっさり見つけたのでゲットし、さっそく読んでみた。なかなか不思議な作品だった。
 子供の頃から独自の視点を持っていて周囲となかなかなじめない主人公が、夢見がちな叔父の偽薬ビジネスに迷いつつも協力して成功をするが、結局は失敗してしまうという話で、大筋としてはそれほど複雑ではないが書かれ方は結構予想外。少年の日の孤独あり、ロマンスあり、叔父夫婦との深い愛情あり、転落を免れるための冒険あり、と小説的に盛り上がる要素が多々含まれるし分量としても多く描かれているのだが、それと負けないぐらい十八世紀国後半から十九世紀初頭の社会の考察を交えて描出にも分量が割かれている。若島先生のいうようにまさしく小説家と思想家が同居しているのである。しかもその思想家・社会学者の面は強く、私的公的を問わず社会のいろいろな面を欲張りすぎるくらい表現しようとしている様にも思われる。感心させられるのはその視点の時代を超越した冷徹ぶりで、貴族社会の風俗や習慣、当時のテクノロジーや文化、そしてその変遷といったことがもともと詳しくない当ブログ主にもなんとなく分かってくる。細部では偽薬の広告(イラストまで出てくる)とか売れていく過程とかかなりおかしかった。時代を伝えてくれる意味でも貴重な作品だろう。都市の俯瞰的描写により文明の姿が浮き彫りになっていくような場面が時々出てきて、そのあたりは近作のバラードのようでもあった。さらに下巻では、 飛行機の開発にのめり込む主人公が飛行機事故を起こしたりヒロインであるビアトリスに激突しそうになったりするところまであって あまりにバラードを思わせむしろ笑ってしまった(大して関連はないかなあ)。
 「私の小説の大部分は、軽い気持ちで、そして何かにせきたてられながら、書いたもの」(本書解説より)と本人がいうようにあまり洗練されているわけではなく、決して読み易いわけではないが、時代を描こうとした思想家の側面とその<何かにせきたてられた>小説家の面が合わさった実にユニークな作品である。

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映画‘スター・トレック’

 観ようかどうしようか迷っていたのだが、SFマニアではない友人にすすめられたので観てきた。予想以上に面白かった。SFマガジン7月号の監督(J・J・エイブラムス)インタビューによるとシリーズ化の構想もあるみたいだから、また観ちゃうだろうなあ。
 スター・トレックについては、今やあまりに大きなシリーズになっていて、以前書いたように当ブログ主の知識など断片的である。そんな中、最初のシリーズのカークやスポックやマッコイやウフーラ(そしてスールー!)を押さえていれば大丈夫という分かりやすいつくりが嬉しい。みんなお馴染みのキャラクター過ぎて、その若き日を描くというアイディアは以前からあったらしい(そのSFマガジンの特集で丸屋九兵衛さんの記事から)が、なかなか難しかったに違いない。そんなアイディアを実現した本作は、思い切った発想でその辺を解決していて(ネタばれになりそうなので何も書かないことにします)、最終的にはもともと持っているシリーズの面白さについての親切な解説にもなっているので、新たなファン獲得にも大きな成功を収めそうだ。
 二、三気づいた点。レナード・ニモイにはやっぱ感動。すげえ重要な役だった。後任スポックの大役にあずかったのはあの‘ヒーローズ’のサイラー、ザッカリー・クイント。SF系でまた有名に。これまたSFマガジンの特集からだが初代マッコイ役も初代スコッティ(日本版ではチャーリー)役ももう亡くなってるんだな。ちょっとしんみり。
 個人的な事情からウルウルしてしまった場面もあったが、まあそれはあくまでもローカル事情。基本的には(ホント)活劇あり涙あり笑いありで、とかく良くも悪くも理想主義的で楽観的といわれるスター・トレックがそのらしさをポジティブに展開した理屈抜きのエンターテインメント作になっていて、この方向性は正しいと思う。

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CKB “SOUL TOUR 009” @ Zepp Tokyo

 日が変わったので、昨日のことになる。久しぶりのライブということで緊張気味の剣さんであったが、もちろん最高でした。読書系ブログだからそれほど多くのCKBファンが読んでいるとも思えないが、演奏曲を書いてまっさらの状態でこれからライブに行きたい人がうっかり見てしまったらいけないので止めておくが、一曲だけちょっと触れる。お許しを。


 Loco Loco Sunset Cruiseを久しぶりにライブで聴いた。2005年のアルバム‘ソウルパンチ’収録のCKBお得意のミドルテンポのロック/R&B系の佳曲で、ライブでも何度か聴いたことがある。ただ昨年のファンの人気投票(CKB TMNK SUMMIT Vol.4)では84位。つまり、まあまあの知名度があるが超人気曲というわけでもない(ただしこのランキングは友の会による濃ゆい選曲で、タイガー&ドラゴンが105位までしかいっていないという代物だが)。突飛な歌詞やアレンジがあるわけでもないしね。しかし、この曲の歌詞は実によくCKBの特徴が出ている。イチバツのおネエちゃんとちょっといい仲になって彼女のアパートの合鍵を渡されちゃいそうになるっていう話なんだけど、最後は夢落ちで目が覚めるのがスタジオなんだよね。つまりモテのように見えるが実際は音楽漬けで明け暮れるCKBの日常が暗示されているわけ。そう、不良っぽい剣さんだがホントは非モテの側の人だという歌なのである。歌詞で明確にそういうつくりになっているものが必ずしも多いわけではないように思うが、以前ライブの冒頭で使われていたHemi Hemi Dodge Cruisingのミュージックビデオでは音楽が流れている間だけビキニ美女をはべらしている映像になり終わるとシュウマイを食べているスモーキーTと剣さんが車に乗っている日常に戻ってしまうとか、GTのジャケットでは助手席の美女はイラストだったり(これも剣さんの脳内彼女かもしれないのだ)、CKBにはそうした演出が時々ある。そうしたセンスが幅広い支持を得ている理由の一つだ思う。

 初期の曲など含めいつもながら幅広い選曲で、おなじみの曲もアレンジを変えてくるなどホントに行く度に発見があるライブである。帰りにゆりかもめから見た月は大きくてきれいだった。いつもいい音楽を有難うCKB!

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『クルーイストン実験』 ケイト・ウイルヘルム

 先日ル・グィンを読んだが、フェミニズムSFといえば他にケイト・ウイルヘルムを思い出す。というわけで、これまでほとんど読んだことがなくて(アンソロジーの短編ぐらい)積読していたウイルヘルムを初読気味でトライ。いやー面白かったですよ。高い評価を得ている作家だというのも納得。
 主人公は、苦痛を取り除くという夢の新薬を開発している研究者アンとクラークの夫婦。実験の中心人物であるアンは交通事故の後遺症からリハビリ中であった。新薬Pa因子はほとんど完成かにみえたが、実験動物の猿たちに暴力的な行動が目立つなどの異変が起こる。認可の手続きをすすめようと、早めに人への投与試験を行おうする会社の意向の中、アンにも不可解な行動が目立つようになる。クラークはそんなアンが事故後の苦痛からPa因子を使ったのではないかと疑いを持ちはじめる。
 何よりも登場人物たちの心の機微が巧みに描かれているところが凄い。長編としてはそれほど長いわけではない中に結構な数の登場人物が出てくるが、ちょっとした場面でのセリフや心理描写でそれぞれが立体的に立ち上がってきて、その思惑の絡み合いが伏線となっていくところが何とも素晴らしい。基本的には男性のエゴイズムに苦しむ女性といったテーマが中心にあるし女性視点からのセックスに関する問題提起もありフェミニズムSFらしい作品ではあるが、そういったディスカッションが作品のバランスを崩すほど全面に登場するわけではなく、むしろ女性をめぐる諸問題が多様な立場の登場人物たちのエピソードの方から透かしだされるようになっていて、最終的には(男女というより)人間そのものの孤独・傲慢といったテーマにもなっているので、フェミニズムといった視点がないような読者でも十分面白く読めると思う。SF的アイディアの占める比重は大きくはなく、今だったらスリップ・ストリームといった位置になりそうな作品だが、苦痛というキイワードが全体の一貫した柱になっていてそれが取り除かれたらどうなるのかという思考実験が背景になっているのだから、やはりSFならではの作品といえるだろうと思う。

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『異端の数ゼロ』 チャールズ・サイフェ

 久しぶりの科学ノンフィクションである。これは1999年に原書が出て、2003年に翻訳が既に出ていたというのだから、あまり新しい本ではないのだな。数学の本だからそう簡単には古びるわけではない(だろう)から、まあいいか。著者はサイエンスライターだそうだが、基本的に本筋の数学の話から脱線せずに素人にものみ込み易く進行させながらチラッチラッと数学者たちの人間味あるエピソードを見せていく手つきがなかなか見事だ。特に前半のゼロの概がいかにして生まれ、その一方で拒絶されていたかという話が面白い。現代ではゼロのない計算など考えられないが、実はゼロが無くても物や時間は数えられるらしい。異なる数学体系を持ったギリシア人もエジプト人もゼロを発見せず、ゼロはバビロニアで生まれた。しかし無を恐れる西洋哲学とゼロの概念は衝突し、それは受け入れられないばかりか深刻な対立すら引き起こしたのである(大事な大事な暦すらゼロがないばかりにずれてしまうのに、それを受け入れられないローマ人は一見滑稽ですらあるが、現代のわれわれだってなんらかの盲点を持って暮らしているだろうことを考えるとなかなかに重い問題である)。その一方で、インドではゼロの概念が受け入れられ、さらに発展させた。このように様々な文明の特徴がゼロという切り口で語られるのも興味深いし、そうした文明のいろいろなつながりにも興味を惹かれた。そしてゼロの概念が無限という概念と表裏一体の関係にあることも提示されるところもスリリングである。人間的なエピソードの方でもパスカルVSデカルトとかニュートンVSライプニッツとか名だけ知っている人々の位置づけもついでに知ることが出来たので何だか得した気分である。後半はSFファンお馴染みのビッグバン、ブラックホール、ワームホールの話も飛び出して実にリーダビリティの高い楽しい数学ノンフィクションである。

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